蘇民将来呪符木簡はどこから見つかったの?
この蘇民将来呪符木簡(そみんしょうらいじゅふもっかん)は、長岡京跡右京六条ニ坊六町の南辺を画する六条条間南小路北側溝から出土しました。六条条間南小路は幅9メートルの東西道路です。六条条間南小路の北側溝は、西二坊坊間小路との交差点付近が幅広で深く枡状(ますじょう)に掘削されていました。この北側溝枡状部からは、蘇民将来呪符木簡を含む木簡72点の他に、大量の土器や木製品、石製品も出土しています。
土器のなかでは須恵器の食器に「市」と記された墨書土器(ぼくしょどき)が見つかりました。「市」は長岡京の西市(にしいち)を示すものと考えられ、未だ場所が確定されていない長岡京西市が近辺に置かれていたこと、また、右京六条ニ坊三町に西市と関連する施設があったものと考えられます。
■ 蘇民将来呪符木簡が出土した場所
長岡京跡の右京域、西市推定地の北側で出土しました
■ 蘇民将来呪符木簡が出土した発掘調査(東から撮影)
発掘調査では六条条間南小路の北側溝を検出しました
■ 蘇民将来呪符木簡が出土した六条条間南小路北側溝の枡状部(南西から撮影)
六条条間南小路北側溝には枡状の掘り込みがあり、木簡はここから出土しました
この蘇民将来呪符木簡はどうすごいの?
ご存知のように長岡京は桓武天皇が784年に奈良の平城京から遷都(せんと)した都です。蘇民将来呪符木簡は、長岡京跡の六条条間南小路北側溝より出土したことから、長岡京が営まれた10年間(西暦784年から794年)のものであることが明らかです。さらには、同じ場所から出土した木簡に、延暦8年(西暦789年)から延暦11年(西暦791年)の年紀を記すものがあることから、長岡京の10年間でも後期に属すものと考えられます。
「蘇民将来」と記された木札は、日本各地から見つかっています。そのなかでも、長岡京跡から出土した蘇民将来呪符木簡は、最も古い例であることが分かっています。祇園祭など私達の身近にある信仰、そして御守や御札といった形が約1200年前の長岡京の時代まで遡ることを示す貴重な遺物なのです。
■■「蘇民将来呪符木簡の解説パンフレット」をダウンロードできます。